昭和43年10月26日 朝の御理解



御理解第93節 万事に行き届いた信心をせよ、とこう言います。万事に行き届いた信心をせよ。万事に行き届いた信心ということはどういうようなことか。信心はああじゃからね、と(  ?)と言われるのですから、私共が行き届いた信心をさせて頂けば、神様また、行き届いたおかげによってそれを、示して下さる。(いわゆる?)行き届いた働きを私共上に現して下さる。万事に行き届くということ、信心と和賀心が神に向かうのを信心と(おっしゃる?)。昨日隅から隅までが信心だとか、生活、信心そのものが生活。生活そのものが信心というようなふうに言われる。そうゆうような意味で、頂かずに今日はね、信心とはみなさんがこうして神様に向こうておる、お参りをしておる、御祈念をしておる、それが信心だというような気持ちでお話を聞いて頂きたいと思う。ね、信心即生活とか、生活即信心とか、いったようないうのでなくて、信心とはどこまでもこう合掌する、神様の前に座って御祈念をする、みなさんが教会に向かって来る。ね、神様を拝まして頂く、ね、それが信心なんだと。だから拝むとき、拝んでいるとき以外は信心じゃない、それは、ただやはり、生活は生活である。家業は家業である。ね、家業そのものが信心。生活そのものが信心といったものではない。ね、信心とはどこまでも神様を拝む。神様にお参りをする。それが信心なんだ。そこで何事も行き届いた信心をせよ。万事に行き届くということ。ですから私はその、万事にこの教えを生かしていくというかね、いやばこうして、神様にお礼をさせてもらう、御祈念をさせてもらう。神様の前に(へいしんてい?)と合掌しておるというそうゆう姿がですね、生活の中に取り入れられる。私、万事に行き届いた信心というのはそうことではなかろうかと。今日は信心と生活と切り離した、信心とはね、どこまでも神様を拝むことが信心なんだ。信心とは参拝することが信心なんだ。ね、で、あの人はお参りが一生懸命でけたり、拝むことが好きであったり、するとあの人が信心が好きだとか、あの人は信心は手安いとかというわけです。ね、そこでその(   ?)の御理解、えー93節のここんところにありますね、万事に行き届いた信心をせよと。行き届いた神様の働きを受けることが出来るために、何事もこの信心になるということは、ちょうど拝ませて頂いておるときのように、参拝をさせて頂いておるときのように、ね、万事にその心でお商売をさせてもらい、百姓をさせてもらい、人に接しさせてもらい、ね、神様にあの御祈念をして申しあげておるときのように、自分のやはり生活態度というのが、できてくる。それがゆやば万事に行き届く、行き届いた信心をするということは、そうゆうことなんだ。教えを守るということをよく言うけれどもね、私はここのところを守らなければ、(どのドアをしても?)みんなここになってしまうと。私共は信心をさせて頂く、信心をさせて頂くその姿が、生活の中に現されていかなければ。私共が一言一言には、あ、こげん時には、こうゆう御教えを(いんよう?)する。こげんときには、こうと教えられておるからというようなものでは、そこだけは、信心だけれどもそれでは行き届いたということにはならん。ね、ただ人間的に行き届いたといったようなものは、もう目の荒いこと。ね、どこに私は御粗末ご無礼があるや分からんぐらいに、目が粗い。人間の考えて行き届きよるのだから。ね、行き届きよるようなその姿が、返って不行き届きになるや場合すらなる。ね、それが例えば人間、お互いの中にですよ、気の利いた人もありゃ、(ぼうに     ?)人もあるでしょう。気の利いた人は行き届いた信心ができるけれども、(ぼう   ?)人は行き届いた信心ができんということになる。だから行き届いたというのは、人間的に行き届くといったようなものじゃないということ。ね、はーもう気を配っておかなければ、いつも気を配っておる。それはね、もう本当にあの気を配らんでも、気付く人。気をも配っておる人と同じように、気が付く人が、(       ?)、そすと、そうゆうひと達じゃなかおかげ頂かれんようなことになる。行き届いたおかげは。だから行き届くとはそんなこっちゃない。ね、これはお互い神様頂いておる一つの(しょうもう?)というか、性格というのは、それぞれに違う。ね、いうなら人間的には非常に行き届かない人もたくさんある。気がつかんったいっち。ね、教えられんでも気が付く人がおる。だからそうゆう意味のことが信心でなされるということもある、それはいけないことではないです、有り難いのですけれども、今日は私はここで万事に行き届いた信心をせよ、とその万事に行き届いた信心させてもらえ、万事に神様が行き届いた御拝領の中にですね、私共がおかげをこうむっていくことができる。それは合わせ鏡のようものだと、こう言われておる。ね、そこでなら行き届いた信心とはどうゆうことかと、そこで(  ?)信心というものを生活と信心と一辺切りはなさなければ。信心とはやはりこうして拝ませてもらうということ。神様の前に一生懸命御祈念をさせてもらうこと。教会にお参りをしてくること。ね、または、教会とか何とかと言わんでもいいよ。ね、自分の、自分ところの神様の前に座って一生懸命御祈念をするとか、いわゆる拝むということが、信心なんだ。だから今日はそうゆうふうに例えば表現しないと分かりにくいから、そうゆうふうに申しておりますわけです。ね、信心とはどこまでも、皆さんがこうやって朝早くからお参りをしてくる、そして一生懸命拝ませてもらう、これが信心なんだ。ね、ここまでお参りさせて頂く間に自分の心を一生懸命整えてくる。口を濯いだり、手を洗ったり、ね、そうでしょうが。ゆわゆる、清めて、清めて、神様の前に(向かわせてもらう?)。信心とはそれが信心なんだ。ね、百姓そのものが信心じゃない。商売そのものが信心じゃない。ただ商売の上に、百姓の上に、様々の事柄の上にただ私共が信心をさせて頂くときのような、心の状態とかそうゆう姿を持ってです、いわゆる実意丁寧な(  ?)低いしたその姿を持って、百姓をし、商売をし、事に接すのだという。いうならば信心という教えを、守って現していくということなんです。ね、(これなら?)これがゆわゆる行き届いた信心。ね、ここんところこうゆう教えを頂くとか、生かすとかということじゃない。ね、今日そうゆうふうに頂いてみるとですね、私共の信心が本当に行き届いてないことに驚きます。なるほど行き届いてないということが分かる。この人には、いうなら(   心)?ができよるか、ね、神様の前に御祈念するようなところ(         ?)。ね、(只今こころやすしに?)、私、家内なら家内、主人なら主人。家内の前に一つも信心じゃない。ね、本当にそこに家内という神様がそこにござる。この人を例えば御祈念するときのように、心持ちやら、ね、この人にものの言うときはまず、自分が口を濯いでおるじゃろうか、手を洗っておるであろうか。心(   ?)ておるだろうかと。そうゆう前、そうゆう心配りをさせて頂きながら、家内に接しる。ね、それが信心なんだ。ところが口もゆすがず、手も洗わずに、(  ?)家の神様に(   ?)する。私は今日はその行き届くということはですね、本当にこうまぁ形の上でもですね、お参りをさせて頂いて、一々お届けをさせてもろう、御神意のままにこうやって色んな、その働きというかね、自分の動くというものをさせてもらうとか、ね、(     ?)されたら、もうお礼に必ず出てきなさるとか、ね、なるほどそれ程行き届くことは(間違いない?)。それはいけないことではない。それは本当に有り難いことなんだ。ね、けれども私はここに万事に行き届くということは、そうではない。万事に行き届くということは、今日私が感じておることのように、聞いて頂いておるそうゆう生き方。それには、信心即生活と。いうようなそれを一つ、何事にも信心になれよと。これは何事にも信心になれよというそうゆう御教えを生活に現していく。何事にも信心になることが信心ではない。信心という教えをそこに現していく。信心はどこまでも神様を拝む。神様に手を合わせること。ね、神様の前に御祈念をすること。足を教会に向けてくること。それが信心である。だからその信心の姿、その信心の状態、その信心(     ?)ものがです、ね、そのままお互いの生活の上にね、現していくと、いわゆる、みんな信心という教えをそこに現していくということ。これにやぱり徹底することが行き届いた信心ということになるのじゃないでしょうかね。今日は一つそこんところをですね、いわゆる拝まして頂きよるような心持ちで、ね、お参りをしていただきよるよな心持ちで、教会に着いたらまず、手を洗い、口を濯がして頂くような心持ちで、ね、事に物にまたは人に、接しさせてもらう。そうゆう信心を私は、これはもう万事に、全ての事に行き届いた信心をせよと。そうゆな(つい?)に、ね、常平生、心にかみしもを着けておれ、とこう言うておられます。ね、例えばなら私で(やんなら?)いつも紋付、はおつきて、しかも御結界に座っておるような心持ちでですね、家内にも接し、事柄にも接し、ね、物の考え方も御結界に座っておるときのような心持ちで物の考えを進めていったら、例えばいやば行き届いた信心ということになる。みなさんでいうなら、お参りをしておるとき、ね、教会に着かして頂いて、御神前に柏手して向かわれたとき、御祈念をしておるとき、ね、そうゆうものがです、段々身についてくる、そうゆうものがいわゆる自分の(しんせん?)になってくるときにです、私はそうゆう人を実意丁寧な人ということになり、実意丁寧な信心になるのじゃなかろうかとこう思う。ね、あの人は実意丁寧の勤行な人だと、こうゆうね、そうゆう稽古が繰り返されて、なるほど実意丁寧の勤行と思われ、言われるような私は人柄というがのでけてくるのではなかろうかとこう思う。私共(おうかつ?)であったと。ね、(甘木の信心?)、即生活。ね、(やぶん?)そうですけれどもね、それでは、そんとき、そん時に信心にならなならん、あの教えをね、そこに持ってきて、引用して、こうゆうときには、こうゆうというふうに、そのいやば非常にすき間だらけの感じがする。そのときだけ。ね、けれども信心とは、こう御祈念しておるときが信心だと。神様(  ?)して、向こうておるときが信心だ。ならば、いつもそうゆう気持ちで事に接していくということが、確かにこれなら行き届いた(せんい?)ができ、生活ができると、こう思うのです。もううかつに例えば、ね、自分の子供だからというて、自分の家内だからというて、ね、自分よりもまぁいうなら身分が低い人だからというて、ね、うかつにコラ―なんて言うことはいけん。まず(感謝  ?)してから、(   ?)気持ちにならないけん。ね、(    ?)口は濯ぎよるじゃろうか、手は洗っておるじゃろうかと思ってみなきゃいけん。というよな心配りこそが、私行き届く、相手に行き届くということ。だからそうゆうものが身についてくる、そうゆうのが自分の(しんしを持ってくる?)そこに、実意丁寧の(ごんげ?)のような人だという人柄が、できてくる。それに身についてしまえば楽である。教えはそれから先、何ぼでも詳しゅ(広う深こい?)分からなければならないことはもちろん、けどまず、ここんところがね、何事にも信心にならせてもらうということが、ね、何事にも信心にならせてもらうということが、その基本にならなければいけない。(    ?)である。何事にも信心になるということは、今日私が信心というものは神様を拝むときとこう申しておる。ね、信心とは神様へ柏手しておるとき、教会に、神様へ神様へと自分の心を向けてきておるとき、それが信心。ね、いわゆるゆわば拝んでおるときが信心だ。ですから、拝んでおるような心持ちで全てのことに、いやば万事のことですね、万事のことに拝んでおるような心持ちで、万事のことにあたらせてもらう。まずこの信心の基本。それが行き届くことである。ね、それが実意である、丁寧である。ね、だからここが基本にならなければ、信心の基本に。ね、それからいやば難しいことも、広いことも、深いことも、教えを頂けねばならない。これができずして、どんなに深い教えを頂いても駄目だと。いう教えが(ホコリに?)なる。今日はそうゆうふうに私は頂きました。(       ?)じゃないでうかつでございましたからね、万事に行き届いた信心しよるようじゃったけれども、万事に行き届かない信心であった。万事に行き届くためには、そうゆうあり方にならせてもらう。本気で一つね、あのそこに取り組ませてもらって、信心の基礎、基本というところをしっかり頂いて、ね、その上に教えを(得る?)よう、他みて身につけていくと、ね、それがギコチなく、ね、自然にスムーズにそのそれができるようにならせて頂いたら、それが実意丁寧が身についてくるということになるのじゃないだろうか。または、万事に行き届いた信心になるのじゃなかろうか。ちょっと窮屈なようであるけれども、ね、常平生、心にかみしもを着けておくというような心持ちで、ここんところを、いよいよ自分のものに、自分の心情にしていかなければならんと思うのです。どうぞ。


大坪真理子
2005年4月30日